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ひな祭りなので、愛について 考えました 電車で 眠りながら

ヾ(@°▽°@)/あはは

「愛する」 には 「われは欲す」 の意味があるのです

エーリッヒ・フロムが言う 「愛とは意志の力である」という事は
愛するとはどこまでも自分の主体的な意思で
Ich Will! という意味と等しいのでは と今日きづく

イッヒヴィル!はヘッセの何に出てたか忘れましたが
かなり核心的なことばであり

愛が  主体的ではなく、こうすべき あいすべき とかいう
観念的で受動的なものであったら
他者や世間の思惑や常識にとらわれたものであったら
いつか、ふざけんな!こんなのやってられないよ!という結果になってしまうのです

だから、けして後悔しない 愛 は
自分の純粋な意志でできていなければ  と。


ある仏教説話 をつい思い出しました。
舎利仏という聡明な釈迦のお弟子さんがいて 一番頭もよく、優しかった。。。
で、その前世だったか、修行をして、あと少しで仏さまになれる寸前のとき

目の見えない乞食に、あなたの目をくれといわれました。
舎利仏はとても優しいので、ならばと思い、すぐ自分の目をえぐり差し出したのです。
さぞ痛かったでしょうね。。できないよね。ふつうは 
で、どうなったかというと、
その乞食はたちまち鬼に姿を変えて、
その目球を、ふん!臭い目だ!といって、足で、ぎゅうぎゅう踏み潰したのですって さ。
それで、舎利仏は血相変えて怒ったりしない、けど、度し難い衆生だ!と
嘆いて、山を降りた(?)かなんかで、仏さんになることができなかった

とさ。

で、まぁんもし目を上げたくてしかたなかったら、相手が踏み潰しても
上げたということで満足できるので やーめた!とはならないよね。

自分の意志だったら。



コメント書いてくれた方 ありがとね
今仕事しながら 書いてるので
また、あとで(〃⌒-⌒〃)∫゛゛